人生は予測のつかないことの連続じゃない、単に「嫌な予測」を見て見ぬふりをしていただけ。

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人生は予測のつかないことの連続。

若い頃は少々の衝撃など平気でした。嵐に遭遇しても、暴風に吹き飛ばされても、雷に打たれても、海で遭難しても、砂漠で干からびても、わたしはすくっと立ち上がることが出来たもの。

それが若さ。

今思うと、それが若さがもたらすしなやかさと強さだったのでしょう。

しかし、40を超えた今、嵐や暴風、雷、海や砂漠での遭難にあうとたちまちのうちにカウンターパンチを喰らった状態になってしまうわたしがいます。バーン、ガタン、ガタン・・・みたいな。

ガタンと倒れた後、どのようにして起き上がればいいのか分からなく途方にくれそう。

そう、人生は予測のつかないことの連続だ。

そして、わたしはその事実に今、打ちのめされそうだ。

「ああ、わたしはやっぱり駄目な子」と1人落ち込んで、危うく奈落の底を覗きかけそうに。危ない、危ない。

すくっと立ち上がり、このブログをしたためることにしました。

己の心を鼓舞するために。己の弱さに打ち勝つために。このブログはそのために存在しているのです。わたしの日常、という名の強いところも、愉しいところも、前向きなところも、そして、弱くてヘタレているところも書くのです。

それがわたしです。

人生、いつも、前向きでハッピーなことばかりじゃないのです。そう、暗くて、沈鬱で、ドロドロで、どうしようもなく嫌になることが続くことも人生なのです。

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きっかけは「1通のメール」、だった。

メールボックスに入っていたメール。

タイトルを見た瞬間に嫌な予感を抱きました。もう、その時点でわたしの心は勝手に「このメールは嫌なもの」と認識し、受け止めました。そして、事実、そのメールはわたしにとって衝撃を与えるものでした。

大袈裟なことを言えば、わたしの人生の設計図を変えるほどの衝撃がありました。第三者にとってはどうってことのない内容のメールでしょうが、わたしにとっては大きな衝撃となって襲い掛かり、わたしを恐ろしいほどの強さで容赦なくなぎ倒しました。

しばし、そこからわたしはどのように立ち直ればいいのか分からなかったです。

現実逃避をはかるように、スマートフォンを片手に布団へ潜り込み、一人、傷ついた頭と心を癒すように無駄なインターネットサーフィンで時間を費やしました。

癒されるのでしょうか?いや、癒されない。スマートフォンを見ているようで見ていない。わたしの心と頭はますます焦りと疲弊を訴えてきます。

どうしよう、どうしよう、と。

わたしの心と頭はますます傷ついていきます。次から次へと自分が生み出していく不安と恐怖に押しつぶされそうになってきます。

なんたる弱さでしょうか・・・!

昔は大人になれば、少々のことでは傷つかず、何事もひょうひょうと乗り越えられると思っていましたが、現実は異なりました。

大人になればなるほど、年を重ねれば重ねるほど、わたしの心はか弱き存在になっていきます。考えてみれば、ここ数カ月、わたしはイチイチ律儀に傷つき、イチイチ律儀に自分の心が生み出す、恐ろしい囁きに打ちひしがれています。

「ほら、見てごらん。今までのツケがきたよ。今後、どうするんだい」

と。

囁くのはわたし。わたしを傷つけるのはわたし。

人生は予測のつかないことの連続、と言うけれど、予測はしていた。

メールの内容はある種の衝撃をわたしにもたらしました。大きな衝撃をもたらしました。息が止まりそう、どうしよう・・・!と

一方で、そのメールに書かれている内容は「予測」のつくものでした。

ここ数カ月、いえ、ここ数年の動きを見ているとそういう可能性も大いにありうるものでした。それをわたしは見て見ないフリをしていただけでした。予測していたけれど、それに対して目をつぶってしまっていました。自分で盲目の状態を作りだし、見て見ぬふりをしてきました。

そう、若い頃からわたしはいろいろなことを見て見ぬふりをしてきました。

暗いことや現実的なこと、嫌なことを考えるよりもその予測を見て見ぬふりをしている方が楽チンだから。わたしの心の安寧のためには嫌なことは見て見ぬふりが手っ取り早かったのです。そして、若い頃はそれでいけたのです。

その見て見ぬふりをしていたツケが今、怒涛の勢いで襲い掛かってきているだけなのでしょう。年を重ねたわたしに「現実」とやらを突き付けているのでしょう。

人生は予測のつかないことの連続じゃない、わたしが嫌な予測を無視していただけ。

分かっているはずの予測を見て見ぬふりをしていただけ。ただ今の安寧を壊したくないがために。将来の安寧は後回しになってしまっていただけ。

落ち込んでいる暇はない、ここからわたしはどうするのか。

若い頃なら、落ち込んだままでも良かったでしょう。

時の流れは偉大です。時が自然とわたしの心を癒してくれるでしょう。もしくはとびっきりゴージャスで甘いスイーツを楽しむのもいいでしょう。女友達と思いっきり笑い話をしてもいいでしょう。

そうやって気分転換をはかること、現実逃避をはかることもあるでしょう。

それが許されるのは若い時だけ。

40を超えた今、それは今許されない。今、問題を先送りしてどうなるのか?ここで動かないままに、何度も何度も同じ衝撃を繰り返すのか。

わたしは動くことにしました。

痛みをこらえ、メールに返信しました。冷静に冷静に文章に綴りました。すると、不思議と頭が冷静になってきたりするのです。キーボードを叩くにつれて、同時に現状を認識し、理解し、そして、自然と受け入れることができました。

それと同時にこの圧倒的な「事実」(もはや予測ではない!事実なのです)にどのように立ち向かうか、わたしにできることは何であろうか?と冷静に考える余裕もでてきました。

つくづく、理解すること、受け止めることの偉大さ。自分の心の中に事実を事実として淡々と受け入れることの偉大さ。

少し、心が救われた気がしました。

頭も冷静になってきました。

そして、こうやってブログに文章を綴っています。文字通り、アウトプットは心を平静にします。頭を冷静にします。静かに落ち着けてくれます。

文章を組み立てることでわたしは何度も何度も自分の心をのぞき込み、そして、自分をなだめてきたような気がします。

これから、わたしは「嫌な予測」に向き合うことができるだろうか。

今回のことを教訓として、わたしは今後、嫌な予測に向き合うことができるでしょうか?

正直なところ、分からないです。

本当に分からないです。予測をたてて、その予測が現実になった時、わたしはしなやかに受け流す余裕はなさそうな気がします。予測は予測。予測が現実のものとなったら、わたしはやはり衝撃を受けるでしょう。

それがわたし。

開き直りかもしれませんが、わたしは自分が何が起ころうと平然と悠然と物事を受け止める日が来るとはとても思えません。たとえ、それが予測されたものであっても。いえ、予測されていたことだからこそ、受ける衝撃というのもあるかもしれません。屁理屈かもしれませんが。

ただ、今回のことで学んだことは予測をたて(それも嫌な方向に!)、その予測に備えることはできただろう、ということ。

そう、できたはず。

それをしなかったのはひとえにわたしの怠慢であり、愚かさであります。横着さであり、傲慢さであり、弱さでした。

ひょっとしたら起るかもしれない。でも、起こらない可能性もあるよね、と愚かな、限りなく薄い希望に縋りついているだけでした。「少しでも改善をしよう、他の道を探しておこう」という選択肢を持たなかったことがわたしの怠慢であり、愚かさであり、横着さであり、傲慢さであり、そして、弱さでした。どうしようもない弱さでした。

どうして、予測できたはずなのに、それを見て見ぬふりをしていたのだろうか・・・!

今回のことで落ち込むのはたやすい。

落ち込んだままでいるのもたやすい。

くじけるのもたやすい。

でも、わたしはそのままでは嫌だ、嫌なんだと認識しました。ならば、わたしにできることはなんだろう?わたしは何をするのだろう?わたしは何ができるのだろう?

だって、これからも人生は続く。

そう、これからも続く人生のために、わたしはわたしが出来ることをしていきたいと思います。

目を背けていた「予測」にどのように向き合うか考えていきたいもの。

立ち向かうか、受け流すか、現実に起こりうるかどうかわからないものはやはり見て見ぬふりをするか。いずれを選択するか。

さて、わたしはいずれを採択するのでしょうか。

危機管理はとっても大切。

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ワタノユキ

奈良在住のアラフォー主婦。
マイペースに生きる主婦 & 在宅ワークの日々(since20141003)。理想と現実の狭間を永遠に彷徨い中。 詳細なプロフィールはこちらにて。 わたしらしく年齢を重ねる 大人の塗り絵ライフ もよろしく♡
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