その言葉は刃のごとく鋭く突き刺さってきました。
しかし、いい意味でも悪い意味でも大人になったわたしはその言葉を聞き流すことに。
胸のうちで「○てまうぞ、こら」と思っていることなどおくびにも出さず、わたしは微笑みを浮かべたもの。
目の前にいるこの女。
この女の言葉に傷ついた風情をチラリとも出してはならない。こんな女の言葉に傷つくことなど、わたしのプライドにかけて許せない。妙な意地と精神力で微笑みを浮かべることを意識したもの。
わたしはこの女の言葉に傷ついていない。そうだ、傷ついてはいないのだ。
認める。
自分にそう言い聞かせる時点でわたしは傷ついていた。激しく傷ついていた。この女の言葉に刃を突き刺された。刃の鋭さにおののき、わたしの心はズタズタになった。
一度のみならず、何度も何度も。
傷ついた心を守る方法
わたしは大人になるにつれて、傷ついた心を守る方法を身に付けていきました。
それが大人になるということなのでしょう。
今回もわたしは同じ方法で自分の心を守りました。
心の傷を棚上げ、瞑想やウォーキング、磨き掃除で無の境地を
わたしがもっとも実践する方法としてウォーキングがあります。
心が傷ついた時はもちろん、動揺した時、落ち込んだ時、泣きたい時、わたしはひたすら歩きます。ただ歩きます。黙々と、疲れるまでに歩きとおします。
一定のリズムで淡々と歩いていると心の中に巣食っていた「怒り」や「悲しみ」、「絶望」、「苦しみ」が勝手に薄れていきます。
わたしの中に渦巻いていた心の傷が黙々と歩くことで得る疲れや苦しみにとってかわります。わたしにとってウォーキングは体のみならず、心も整える手段なのです。同じ意味で磨き掃除などもあります。フローリングやふろ場、窓をひたすら磨きます。
ただ機械的に手足を動かすことがわたしには必要なのです。
そして、それらで解消出来ないほど傷ついた場合、瞑想の世界に入ります。
心がぐちゃぐちゃのときは瞑想をしても本当に頭の中がぐちゃぐちゃ。次から次へとわたしの心を傷つけた事象が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返します。それを我慢強く瞑想していくにつれ、頭の中が落ち着いていくことを感じます。
瞑想は何度も何度も続けていくことでより頭が空っぽになる感覚を得ることが出来るでしょう。
尚、わたしの瞑想のバイブルは以下です。
始めよう。瞑想:15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)
心の傷を吐き出す、友人やメモ帳にすべてをさらけ出す
若い頃は友人によく愚痴をこぼし、今はメモ帳に愚痴をこぼしております。
心のモヤモヤを自分の内側から吐き出してしまう、という感覚でしょうか。論理的に筋道だって吐き出すんじゃない、感情のままにその時に感じたことをドバーッと吐き出す、と。
若い頃は友人に。そして、今は紙に。
ひたすら書き殴って、書き殴って、書くと頭が冷静になってきます。そして書き終えた紙をぐちゃぐちゃにしたり、千切って破り捨てたり、丸めてごみ箱に放り投げたり。
わたしの胸が抱えた傷はすべて紙に譲り渡してしまいます。そう、わたしの心に一滴も残さないように。

心の傷を受け止める、ひたすら自己憐憫にひたる
わたしってなんてかわいそうなんだろう。
悲劇のヒロインになりきます。
泣ける映画を観てヒロインに感情移入し、滂沱の涙を流し「わたしってなんてかわいそうなんだろう!」と。「本当にかわいそう。傷ついたわたしはかわいそう。傷ついたことがかわいそう」とかいう「かわいそう」の3段階の世界へ踏み入ります。
ひたすら「こんなに傷ついた自分はかわいそうな存在なんだわ」とそのまま受け止める形。
傷ついたことを責めるんじゃない。なぜ、傷ついたのかということもどうでもいい。ただ、わたしは傷ついている、だから、かわいそうなのだ、と認めるだけ。
悲劇のヒロインになりきると冷静になってくる第三者としてのわたしが出てきます。冷静になれる、ということはそれだけ心がスッキリとしたということ。
それでいいのです。
参考かわいそう病とは?子どもがいなくてかわいそう、独身でかわいそう、バツイチでかわいそう
それでもふっと沸き起こる、あの女の言葉
心の整理をしたつもりでもふっとした瞬間に沸き起こるあの女の言葉。
どす黒い感情に心が支配される。
思いだすたびに、わたしは自らに刃をつきさしてしまう、何度も何度も。
あの女の言葉に傷ついたのか、あの女の言葉に傷ついたことに傷ついたのか。
次第に分からなくなってくる。
そして、考えた。
わたしの心を傷つけているものは何なのだろうか?
あの女の言葉か。あの女の眼差しか。あの女の軽蔑か。あの女の憐れみか。
わたしは何に傷ついているのだろか?
わたしの傷ついた心を分析する
もう一度メモ帳を開きました。
タイトルは「なぜ、あの女の言葉はわたしの心を傷つけたのか。」と。
わたしは自分が傷ついた事実には目を向け、対処しようとしたけれど、そもそも「なぜ、あの女の言葉はわたしの心を傷つけたのか。」については考えたことがないことに気付きました。
傷ついたわたし=善、傷つけた女=悪と。わたしの心をこんなに傷つけたあの女が悪いのだ、とばかりに。
「なぜ、あの女の言葉はわたしの心を傷つけたのか。」
特に「なぜ」の部分を追及していくことに。
あの女の言葉は・・・
- わたしのプライドをへし折った
- わたしのコンプレックスを指摘された
- わたしの悩みを指摘された
- わたしの心の弱い部分を突き破ってきた
- わたしのことを理解してくれなかった
あの女がわたしを傷つけたのではない。
わたしがあの女の言葉に勝手に傷ついているのだ。
結局、わたしはあの女がわたしの望む、わたしの心が喜ぶ言葉を口にしなかったことに傷ついていたのだ。
そう、あの女にとって発した言葉はなんてことのないものだったに違いない。日常会話の一環だったのだ。あの言葉に、あの瞬間の言葉にわたしが深く傷ついたことをあの女は知らないに違いない。
そのなんてことのない言葉に傷ついたのはわたしの自意識なのだ。わたしの心なのだ。それが、わたしの弱さなのだ。わたしの触れたくない個所を暴かれたことに傷ついているのだ。
心が傷つくことは、結局はわたしの問題なのだ。
わたしの心を傷つけるのはわたしの意識なのだ。意識的であれ、無意識的であれ、わたしの心の弱さがわたしの心に傷を作っていくのだ。
何度も何度も自らに刃を突き刺しているのはわたしなのだ。そして、そのたびにわたしの心は律義に傷を負っていく。
結局、わたしの心を傷つけるのはわたしの心
わたしの記憶が何度も何度も傷ついた言葉を反芻する。
ふっとした瞬間に意識の奥から引っ張りだしてくる。わたしの望まない言葉を。何度も何度も引っ張り出してくる。あの女じゃない、わたしが引っ張り出してくる。そう、あの女の言葉を。
傷ついた心を棚上げするのもいい、放り出すのもいい。ひたすら悲劇のヒロインになりきるのもいい。
それで解消される心の傷もあるだろう。
でも、それでは融解しない心の傷もある。わたしはその心の傷と向き合う必要があるのだ。わたしの心のために。わたしの心を回復させるのはわたしだけなのだ。誰もわたしの心を癒やしてくれない。わたしはわたしの心を癒やす義務がある。
そうして、わたしは少しだけ強くなった心を抱えることができるのだ。
あの女がなぜ、それを言ったのかはもうどうでもいい。それは彼女の問題なのだ。彼女の心の問題なのだ。彼女の心の闇なのかもしれない。が、それはわたしの問題ではない。わたしの心の闇ではない。あの女の闇なのだ。
わたしはあの女の言葉に傷ついたのではない。自らの弱さに傷ついたのだ。傷ついた自らに傷ついたのだ。
さて、わたしはその弱さをいかようにすべきか。
そのまま弱い自分を肯定して受け止めるか、わたしはわたしを変えるべきか。今、岐路に立っているような気がしてならない。
そうだ、わたしの目を覚まさせてくれてありがとう。
今はあの女の言葉に感謝する余裕が出てきた。
そして、次、あの女と会う時は笑顔を浮かべる自信がある。
女友達との付き合い、ライフスタイルの変遷をどう乗り越えるか。