先日、実家に帰った時、母から「隣の家のおばちゃんが倒れた」と話を聞きました。
隣のおばちゃん。わたしの亡き祖母と同世代のおばあちゃん。もう90半ばを過ぎて、今なお隣の家で一人暮らし。かくしゃくとした印象だったが、あのおばちゃんもついに倒れたのか、と感慨深いものがありました。
が、よくよく話を聞いてみると異なりました。
「隣のおばちゃん」といっても90代半ばのおばあちゃんではなく、70代の嫁の方である、とのこと。
つまり90代半ばの姑は今なお元気だが、近所に住み、たまに姑の様子を見に来ていた70代の嫁が倒れた、とのこと。嫁の今後は寝たきりと介護が予想されるそうで、いろいろと大変そうです。
一方、隣に一人で済む90代半ばのおばちゃんは超元気で、頭もしっかりとしており、わたしの顔もまだ認識できます。会話もしっかりとしたもので感心しきり。
嫁が倒れ、息子と孫がそちらにかかりきりであることに不安もあるだろうに、全くそんな気配を感じさせませんした。
それにしても、このおばちゃんの人生はなかなか理想的なモノがあるが、ここまで生きていたいか、といわれると正直微妙なところです。
特に子供のいない我が家は財産を綺麗に使い切って、とっとと倒れ、とっとと亡くなるのが理想的なのですが、果たしてそんなにうまくいきますでしょうか?
父の闘病に思う、わたしの老後
ここ数年、祖母、祖母の兄弟、友人の父、ないしは母が倒れ、亡くなることが増えていき、自らの人生の最後を考える機会が増えてきました。
特に父の癌宣告、3か月という余命宣告、闘病はわたしの心に大きな影響を与え、保険の見直しや終活などを考えるきっかけになりました。
が、なかなか心が定まらないものです。保険はともかくとして終活、つまり人生の最後をどのように迎えるのかは甚だ心もとないです。
わたしの人生の最後はどのようなものか?
と考えると暗いものしか思い浮かびません。
子どもがいない、6歳年上の夫と二人暮らし、夫が亡くなったらわたしは一人暮らし。わたしはどうやって生きていくのだろうか?と考え始めると本当にブルーで暗くなります。もう悲惨な将来しか予想できない、と。
一応、「さっさと施設に入ってさっさとくたばりたい」という超曖昧なプランだけならあるのですが、そんな理想通りに行くのだろうか?
そもそも、そんなにさっさとくたばることができるのだろうか?と。そもそも、年金もきちんともらえるの?
余命宣告はあっさりと唐突に告げられる。そして、それから3か月後と8カ月後、まだ生きています。
そもそも、わたしは何歳まで生きられるのか?そして、介護問題はどうするのか?
わたしの父方の祖父は60代で亡くなり、祖母は80代半ばで死去しました。母方の祖母は50代で、祖父は90代半ばで亡くなりました。
4人とも倒れてから亡くなるまで比較的早く、父方の祖父は倒れて病院に運び込まれた後1週間で亡くなりました。祖母は二人ともと3か月~半年後に亡くなりました。90代半ばで亡くなった祖父は寝込む寸前まで自転車を運転しており(汗)、骨折により寝込んでから1年足らずで亡くなりました。
いずれも病院や施設にて生涯の最後を迎えることに。それらはそれなりに理想的な最期だったのではないか、と今にして思います。
自分にも、家族にも最小限の負担で済んだように思います。
が、親族を見ていると世の中、そんなにうまくいく話ばかりではないことを実感します。
むしろ、倒れてからの人生も選択する必要性があるときも間々あります。そういう時、子供のいないわたしたち夫婦はどう立ち向かうのか、と考えると夜も眠れなくなる時があります。
まじかに迫っている親の介護よりも考えさせられます。親の介護はわたしと兄弟で何とかしますし、実際にできるでしょう。
が、子供のいないわたしたち夫婦はどうするのか?
子どものいない伯母夫婦
わたしの伯母夫婦には子供がいません。
70代半ばを迎えました。ともにまだかくしゃくとしています。が、田舎の広い家と土地を受け継いで、守る人がいない現実。
わたしならすべてを売り払って、そのお金で施設に入ることを考えます。だが、伯母夫婦は田舎の家を守ることのみに意識が向いており、正直、それに悩まされることもあります。
誰もその田舎の家と土地が欲しくないのです。少なくともわたしは欲しくありません。相続税や田舎の閉鎖性、売れる見込みの少なさを考えるとまったく欲しくありません。
そもそも、田舎に育ったわたしは不動産を持つ大変さ、相続する大変さは実家で嫌というほど身に染みて学んだのです。その時に思ったことは「中途半端に不要な不動産はいらない」ということ。都会ならば話は別かもしれませんが、現実は緑生い茂る田舎の土地の話なのです。
伯母夫婦はとても元気です。またとても体に気をつかっています。
が、今後、介護問題が発生しないとは限りません。その時、一番近くにいる姪として動く必要性も出てくるでしょう。
伯母夫婦の生き方を一つのロールモデルとしてわたしは自分の老後を考えていく必要があるな、と思っていますが、果たしてそんなにうまくいくだろうか?とこれまた頭を抱える日々。
そう、わたしは起こりもしないことに対して不安に駆られているのです。
積極的な治療や延命治療の選択をしないということ
医療機関に勤める友人と会いました。
ここだけの話、としてあっさりと「どうにでもなる」とあっさりと片付けられました。子どもがいようがいまいが介護問題や人生の最後にたいして違いはない、と。大切なのは何を決断するか、しないか、ということ。
そして、自分で死期を決めたければ、もしくは寝込みたくなければ一つの手として「積極的な治療をしない」ことも選択肢としてある、と。
病気にもよるけれど、ある程度の年代になったら、積極的な治療をしない選択肢もクオリティーオブライフ(生活の質)を守る一つの手段だと。
そもそも、今のわたしたちは今の90代や100代ほど元気に健康的に生きて、老衰に至る可能性は低いと思う。どこかで多分、病気をするのだから、その時に積極的な治療をするかしないか、決断をすればいいだけの話。
不必要な延命治療も嫌なら、普段から強く家族に告げておくべき、と言われました。その時になったら家族は絶対に迷う。そして、実際に延命治療を選択して後悔する例も多い、と。呼吸器を一度付けたらもう絶対に外せなくなる、と。
親しい友人に極めてドライに言われて、目が覚めました。
わたしの中でまだまだ、迷うこともあり、悩みもあり、揺れる気持ちもあります。
が、感情や不安、焦りなどで支配されて不確かな未来を案じるのはできるだけ控えよう、と思いました。
その時になったらわたしはどのように決断するのか、どのように動くのか、自分の中で決めておくことが今のわたしには必要なのではないか、と思いました。
わたしの手ではどうにもならない事を考えるよりも、わたしの手でどうにかできることを一つずつ片付けていこう、と。老後になっても甥や姪には頼らない道と資産を構築していこう、と。財産の譲渡先も決めておこう、と。
友と話すことで見えてきて、ちょっとスッキリとしました。
