わたしよりも年下のイトコが病に倒れたことは知っていた。
手術を受けたことも知っていたが、てっきりと回復するものだと思っていた。
イトコは遠からず死ぬ。
その事実をつきつけられて混乱したわたしがいた。
あの子が?え、あの子が死ぬの…?
正確にはイトコではない。複雑に絡み合った親族の系図のどこかに存在している子。比較的年が近いということもあり、親族の集まりの場では何かと一緒に遊んだ記憶が鮮やかに蘇る。
40代半ば、それなりに人の死には慣れてきたつもりだが、年の近い、いや、わたしより年下のイトコの死ぬかもしれないという事実はわたしに思いがけないほどの衝撃をもたらした。
身近に迫ってくる「死」という存在
20代のうちは冠婚葬祭のうち、婚の比率が圧倒的に多かったものだが、30代に入ると一転して葬の比率が高くなってきた。
また、それと同時に同世代の知人の死に触れることも多くなる。
友人のご主人、主人の同僚、ともに30代と40代。子供を残しての死であり、さぞかし無念であったであろうと感じ入る。
そして、そこへイトコが並ぶのか…とどうしようもない悲しみに襲われた。
祖父母世代の死は「ああ、そういう頃合いだよな」とわりあいあっさりと悟りを開けるのだが、年が近い世代の死の予感をあっさりと受け止める強さがわたしにはない。
今もまだ一縷の望みをかけている。
イトコが奇跡的に回復して一族の集まりの場で再会することを。
ただただ一途に信じている。
母から告げられた事実に、妹や弟と語るべきこともなく、ただただ沈黙がその場を支配した。
死は訪れる、いつかではなく、今、訪れるのだ
数年前、父が余命宣告を受けたときも思ったのが、死は思っていたよりも近い存在だった。
死は身近に存在している。
そう、大きな鎌を構えて死神は常に隣に存在しているのだ。死神は鎌を振り落とす瞬間を待ち構えているのだ。
今、この瞬間なのか、今日なのか、明日なのか、1ヶ月後なのか、1年後なのか、10年後なのか…わたしの頸筋に無慈悲な鎌を振られるのはいつなのか。
それはそんなに遠くない未来なのかもしれない。
そんなことを考える年の瀬。
明日、死んでもいい毎日
折しも、新しい年を迎えようとしている。
2020年。
わたしは明日、死んでもいい毎日を過ごすことを意識したい。
追記
さようなら、イトコどの。。。