最近、爪のメンテナンスにはまっています。
そこで知ったのですが、爪は硬ければ硬いほど丈夫なのではなく、柔らかければ柔らかいほど衝撃に強い、しなやかな強さを持つそう。
「目から鱗」とばかりに驚く一方、妙に納得をしてしまいました。
爪が潤いを無くし、硬いと物理的衝撃をそのままストレートに受け止め、割れて、折れてしまう。
でも、きちんと潤っている爪は物理的衝撃もしなかやかに受け流すことができるそう。
ああ、わたしの心に足りないのはこれだと思いました。
わたしの心に潤いが足りないから、カサカサに乾燥をしているから、わたしの心は衝撃に簡単に折れ、凹み、落ち込み、グダグダになり、主人に八つ当たりをし、浮上できないのだろう、と。
荒れ果てた不毛の大地に一人ポツンと立ち、吹き荒れる風雨、雷にうたれてあっけなく倒れてしまうのだろう、と。そして、そのまま起き上がれない。
年を重ねれば重ねるほどわたしの心の「鎧」が強固になり、それと同時に心は強くなると思っていました。でも、今、思うことは心の「鎧」が強固になった分、それが壊れた時の修復にも手間と時間がかかる、ということ。
今、わたしの心は弱っている。泣いている。今にも地面に倒れそうでへばっている。ああ、更年期だろうか、と思うわたしがいる。更年期になると涙もろくなるというしねー。でも、それって更年期を口実にして逃げようとしているんじゃないか、と思う。
わたしの心はこんなに衝撃に弱かったのだろうか、とまた衝撃を受けてへばりそう。
きっかけはささいなこと、洗濯機が壊れた。
きっかけは昨年の11月に洗濯機が壊れたこと。
壊れたことによる衝撃、洗濯ができないことによる衝撃、10万円を超えるお金が飛んでいった衝撃、お金が飛んでいく年末を前にした予定外の出費による衝撃・・・なんだろう、イチイチ律儀にわたしの心は衝撃を受けました。ダメージを受けました。
単純に考えると洗濯機が壊れた、買い替えればいいじゃん、というだけのこと。事実、主人はそんな風におおらかに受け止めていました。「壊れたのかー直らないね、買い替えだね」と。壊れたことはしょうがない、買い替えで済むから楽なもんだ、と。
でも、わたしはそう切り替えられなかった。
分かりやすく落ち込みました。わたしの使い方が良くなかったのかな?なんで、今壊れるんだろう・・・せめて年明けまでもってくれればいいのに・・・とウジウジ。本当に目に見える形で落ち込みました。
でも、その後、新しい洗濯機を使い始めると「やっぱり新しい洗濯機はいいわ」と心が浮上し、クレジットの引き落としとその金額を見てまた落ち込み・・・と心が目まぐるしく動いてしまう。イチイチ反応してしまう。
どうして、事実を事実としてそのまま受け止められないのだろう。
どうして、わたしはイチイチ落ち込むのだろう。分かっていることにも落ち込むのだろう。
後日、クレジットの引き落としがあることなんてわかっていたんじゃん!と。なのに通帳を手にして引き落とされた額の大きさに心が震えてしまうわたし。洗濯機が壊れた衝撃を思い出してしまうわたし。
その後、わたしにとっての「衝撃」が続いた。
昨年末からいろいろとやらかしました。
それにしても、12月に入ってから・・・
電子マネー紛失、パスワード失念によるキャッシュカードのロック(汗)、スマホの文鎮化・・・と続くわー
ま、新年に向けての厄落としと捉えておく。。。— ワタノ ユキ@レベル24 (@Watano_Yuki) 2016年12月21日
11月 洗濯機故障
12月 電子マネーカード紛失、キャッシュカードのロック、スマートフォンの故障、オーブンレンジの故障、歯の詰め物がとれていた、仕事の締め切り
そうそう、長年付き合っている友人の結婚&海外移住 も衝撃でした。
もう今までのように気楽に友と会うことが出来なくなる・・・結婚は嬉しいけれど、彼女がわたしから物理的に離れていくのは嫌だ、とそんな身勝手なことを考えてしまう自分に嫌気がさしました。どうして、素直に彼女の結婚を祝えないだろう、と。
また、その他、人間関係のしくじり、身内の病の発覚なども重なり、イチイチ律儀に衝撃を受けました。呆然と。
一つ一つから受け取る衝撃の度合いは異なれど、それが重なっていくと浮上する方法を見失い、心が萎れてしまいました。水面に浮上したいのだけれど、もがいているだけで、浮上できなくなってしまいました。浮上の方法を忘れてしまったかのように。
ああ、わたしの心の弱さ。
そして、昨夜、風呂に入りながら泣いてしまいました。風呂上りに主人に慰めてもらう羽目に。
昔は泣けば解決した、でも、今は解決しない。
わたしは昔から涙もろい子でした。よく泣く子どもでした。
映画や本を見て感情移入して泣いていました。ニュースでも泣いていました。
大人になってもそれは同じ。
働いていた頃、職場で泣いたことはないけれど(無駄に高いプライドゆえに)、帰りの電車の中で涙をこらえたこともあります。そして、こらえてこらえてこらえた分、家に帰ってから泣く、と。
恋人との仲が終わったときにも一人で泣く。友人関係がもつれた時も一人で泣く。どうしようもない不安と絶望感に襲われた時に一人で泣く。自分の思う通りにならない時に一人で泣く。
一人で思う存分に泣いて泣いて心を洗い、潤わせていました。
涙は分かりやすく、わたしを助けてくれました。思えば、それが若さの持つ特権だったのでしょう。泣いて心をスッキリとさせた後、顔をグイッと持ち上げ、足を踏みしめ、また前を向いて歩いたもの。
でも、40代の今、泣いても泣いても心がスッキリとしない。頭も重く、持ち上げることができない。目の前に横たわる現実におののくばかりのわたしがいます。
大人になったら心は強くなると思っていたのに。
大人になったら一人で大地を踏みしめることができるようになると思っていたのに。
今のわたしは昔より弱い。心が硬くなった分、ポキッと折れたら折れたまま。しなやかに回復しそうにない。
わたしが受けた衝撃は傍から見ると、小さいものだろうに。わたしなんかまだまだ恵まれているだろうに。わたしの不幸なんかたいしたことがないだろうに。イチイチ大袈裟に受け止めているだけだろうに。
頭の中にいる冷静なわたしは絶えずそう囁きかけている。
その囁きを聞いているとますます情けなく、自分の弱さとヘタレ具合に恥じ入るばかり。
心に潤いを与え、衝撃を受け流す強さが欲しい。
ここ数日、ウダウダと考えた結果、わたしが出した結論。
わたしの弱さはわたしの心に巣食っている不安が見せているもの。わたしに自信がないから、わたしは傷つく。わたしの心は今カラカラに乾燥している、しなやかに立ち上がることができないのだ。
わたしに自信を与えるものはなんだろう?
わたしの心に潤いを与えるものはなんだろう?
わたしの心から不安を消すためには何をしたらいいのだろう?
まずは心に潤いを与えないとダメ。爪にオイルを与えて、柔らかく強くするように心にも「オイル」を。
そのオイルはなんだろう?
何がわたしにとっての心のオイルだろう。何がわたしの心に潤いを与えてくれるのだろう。もうわたしはそんなことも分からなくなっているのかもしれない。
甘いケーキを食べてもダメ。楽しい本を読んでもダメ。楽しい会話をしてもダメ。ネットサーフィンをしてもダメ。出かけてもダメ。瞑想をしてもダメ。爪に潤いを与えるオイルのような心のオイルを見つけることができない。簡単にできない。荒野に立ちすくんでしまっているわたしがいる。そこから動き出すことのできないわたしがいる。
だからこそ、わたしは心の潤いが欲しいのだ。切望するのだ。簡単に入らないからこそ、わたしは心のオイルが欲しいのだ。
わたしの心に潤いを与えるもの。
わたしの心をしなやかに強くしてくれるもの。
そして、目の前にある「事実」を「事実」として受け止め、柔らかく受け流し、衝撃を受けない、もしくは衝撃を最小限に抑えることのできる平常心を手に入れたい。
わたしの心をメンテナンスするのはわたしだけ。
そう、わたしの心は自分でなんとかするしかないのだから。誰もわたしに潤いを与えてくれない。わたしが自らつかみ取らないといけない。心に潤いを与えてくれるオイルを。
個人的に理想は主人だったりします。
わたしの主人は常に平静でクール。わたしがテンパっているとすーっと心をなだめる役割を負ってくれます。「どうしてそんなに落ち着いていられるのか?」といつも不思議に思ってしまうほど。
でも、主人からすると「どうしてそんなに感情が大きく揺り動かされるのか?」と思っているんでしょうね。汗。それもしょうもないことで・・・