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40代バツイチ、このまま1人でいくか、再婚?その背景にあるもの

2016年9月19日

女友達

悩ましい話。

20代で結婚、そして離婚。結婚に対する夢や希望が木っ端微塵。

女友達は華やかな美貌を武器に30代の間は恋愛を繰り広げたけれど、「結婚はもうこりごり」という意識が。男に求めるのはただ一つ、「茶飲み友達でいいの」と。家には絶対に入れない。相手の家にも絶対に行かない。会いたい時に外で会って、束縛しないで、飽きたらさようなら、で。それが楽チン、だと。

が、それも飽きたのか、面倒くさくなったのか、管理職になり仕事が忙しくなったのか、ここ数年は恋よりも他のことに目が向いている雰囲気だった。のハズだった。40代の今、「このまま1人でいくか、再婚をするのか考える」と。

うーん・・・悩ましい話だ。

長年の親友として言えること。

彼女は結婚に向いていない。そう、向いていない。多分、向いていない。仕事は出来るし、趣味も楽しめるけれど、結婚生活には向いていない。常に自分がヒロインで、自分が主人公で、自分を中心に生活を回さないとダメで、独善的で断定的な彼女には向いていない。友達や恋人として付き合う分には素晴らしく、愉しく、エキサイティング。しかし、一緒に生活をするとなると・・・?

そう指摘すると「それもそうなんだよなー」と何やら一人納得をしている。

どうして、「再婚をしたいのか?」。「40を超えてこのまま1人っていうのも怖い・・・」と。

いつか、女一人で生きていく覚悟。

この話、わたしにとっても身近な話。

確率論的に考えると、年上の主人はわたしより先に亡くなる可能性が高く、わたしのほうが主人の死後、生きる可能性が。

いつかは分からないけれど、その時にわたしは初めての一人暮らしを体感することになるだろう、と覚悟を決めています。

それは、はっきりとした覚悟ではなく、非常に漠然とした覚悟というか不安というか恐怖というか、ま、そのあたりの感情めいたものがわたしの中に漠然とあります。子どももいないしね。甥や姪にはまったく期待をしていない。

そう、わたしも遅かれ早かれ一人で生きていくことになるのだ。

毎日、毎日、主人が傍にいることを当たり前だと思っているけれど、いつ何時、その当たり前のことを失うかは分からないのだ。でも、そんなことをずーっとずっと考えていると落ち込んでしまうし、毎日が暗く、憂鬱なものになるから目を向けないようにしている。

そんな漠然とした、不確かな未来に心を支配されないよう、「今」を見つめるべく、意識している。

努力して意識している。そう、努力して意識しないといけない年代に入ってきたことを実感する。40を超えると顕著になってきた。その不安が FPの資格取得 に結びついたのだ。

個人的に苦手意識が強く、目を背けていたけれど、「お金」のことを理解しないといけないのだ、と。「お金」をいかにして守り、いかにして増やし、いかにして自分のために使うのか、と。「お金」のことは知らないよりも知る方がいい、と。自分を守るのは自分しかいない、と。

そして、わたしと同じように周囲も同じ不安を漠然と抱えるようになってきたのだ。

「お金」、「人間関係」、「家族」、「仕事」、「地域」、「知識」・・・わたし達を守るのは何だろう?と。

結果、わたしは「お金」に意識を向け、彼女は「家族」に目を向けたのだ。その根本にあるものは同じだ、老後の生活に対する漠然とした不安。老いることによる不安。

30代の頃は見て見ぬ振りができた大いなる不安が次から次へと波のように襲ってくる。

わたしを守るのは何だろう?

結婚生活、それに伴う安定と不安定。

結婚すれば老後は安定なのか?子どもを産めば老後は安定なのか?家があれば老後は安定なのか?

わたしは田舎の本家で育ちました。

近所の人とは割と密な付き合いのある地域。近所の噂話が普通に家の中に入ってくる家庭で育ちました。そして、親族との付き合いも非常に密接で濃く鬱陶しいもの。

その中で感じたことは「何も頼りにならない」ということ。

家族はもちろん、子ども、親、孫、祖父母、甥姪、友人、近所の人はもちろん、家もお金も土地も頼りにならないということ。

もちろん、何事もなく、それらを頼りにして平穏に人生を過ごすことができることもあります。

でも、本当に些細なことでふっとした瞬間にそれらを頼みにした生活や幸せが崩れることがあるということを感じました。つい最近もそのことを感じさせられることがあり、胸がぎゅーっと締め付けられました。

本当に人生、何が起こるか、起こらないかは分からないのだ。

わたしは今、主人を頼みにして、主人を信頼して、主人と共に生きています。それはそれで幸福な生活ですが、それがいつ崩れるのかは本当に分からないもの。

そうなった時に最後に頼みになるのは「自分」しかいないのだ、と思っているわたしがいます。

結局のところ、結婚をしても、子どもを産んでも、孫が産まれても、近所の人と親しく付き合っても、信頼できる友を得ても、そこに幸せと安泰が約束されているわけではない、ということ。

むしろ、煩わしいことが増える可能性もある、と。それと向き合って、立ち向かって幸せを掴む可能性もあるけれど、その反面、悲しみや苦しみ、怒りを掴む可能性もある。

それは一度、結婚をしてバツイチになった彼女が一番、実感をしていた。

だからこそ、彼女は揺れるのだ。

一人で生きる気楽さかパートナーを手に入れることで得るかもしれない安定か。

パートナーは人生を共に戦う戦友。

わたしにとって主人とは人生の喜び、愉しみ、怒り、悲しみを分かち合い、同時に共に戦う戦友という意識があります。

わたしは主人を信頼していますし、主人にとってもそうであってほしい。

主人と結婚したことにより、わたしは何かを手に入れた実感を感じることができたもの。ああ、これで長い人生に1人で立ち向かう必要がなくなったのだ、と。共に戦う戦友ができたのだ、と。

しかし、それと同時にやはり諸々のなんやかんやが出てきますよね(^^;

それを秤にかけた時、どちらに傾くか。

わたしは結婚の喜びを得たと思っているし、主人と生活をすることに喜びはあります。子どもには恵まれなかったけれど、その分、二人の仲は極めて良好だと思っています。仲のいい夫婦なんじゃないかしら。

そこにある種の「安寧」は得ました。

しかし、「安定」は得ている実感はありません。でも、主人と一緒なら立ち向かえそうな予感だけはあります。

わたしの結婚する際の基準は「この人と一緒なら苦難を乗り越えられるかしら?」ということでしたが、主人とならそれを乗り越えられるかも・・・?というあやふやな予感だけあります。確信はできないけれど。でも、「わたしは愛する男のためなら頑張っちゃうぞ!」という気概だけは持っているつもりです。

そのパートナーを得ている感謝。

わたしは一人で立ち向かえない、と思ったから主人を捕まえた。

でも、彼女は?

一人で人生に立ち向かう勇気を得る方法を見つける。

断言も断定もしないけれど、わたしは彼女が非常に「強い女性だ」と思っている。

ある種の「脆さ」も「か弱さ」、「情緒の不安定さ」も持ち合わせているけれど、それ以上に彼女は強い女性だ。根っからのファイターだ。精神的にどっしりと根っこみたいなものを体の中に備えている。そこがわたしとは違う、と思っている。だからこそ、わたしは彼女に惹かれたのだ。40年近い友情を保っているのだ。

彼女の強さ。

彼女の逞しさ。

彼女のバイタリティ。

それはわたしに持ちえないものだから。だからこそ、わたしは彼女に惹かれ、長きに渡って友人であり続けるのだ。

友に夢を見すぎているのかもしれないが、

「老後が不安だ。孤独死が怖い。 → 再婚しようかな。」

ではなく、

「再婚してもいい相手ができた! → 幸せな老後に繋がった!」

になることを願っている。次、再婚するならとびっきり幸せになってほしいから。本当に。そうなったら、心より祝福する。

それまでは1人で人生に立ち向かう方法を一緒に見つけよう。

泣きたくなったら、不安になったら、怒りにかられたら、わたしがいつでもあなたの傍に行くから、と。赤ちゃんの頃から共に過ごした友としてどちらかの人生の最後まで一緒に過ごす、と。何しろ、主人とよりもあなたと過ごした時間の方が長いのだから・・・!

老後の不安は尽きせぬもの。

次から次へと沸いてくる。一人で過ごす夜にはどんなに沸いてくることだろう。でも、だからこそ、自分ひとりの足で立てる強さが欲しい。

彼女だけではなく、わたしにもその強さが。

普通の人が老後まで安心して暮らすためのお金の話

ワタノユキ

マイペースに生きる主婦 & 在宅ワークの日々(since20141003)。理想と現実の狭間を永遠に彷徨い中。 詳細なプロフィールはこちらにて。 わたしらしく年齢を重ねる もよろしく♡

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