何歳になっても娘は娘、母親は母親。
母親は娘に愚痴を言うのが習慣だった、そして、娘はそれを黙って受け止めていました。が、次第に娘は内に抱えていれらずになり、外に内に秘めた思いを発露するように。
その一人がわたし。
愚痴を聞き始めた当初はそれなりに同情し、それなりに楽しんで聞けました。まさに人の不幸は蜜の味。良く知らない第三者の愚痴をテレビ画面の向こうのワイドショーを見ているかのように聞きました。
濃密な人間関係から起こる葛藤とドラマを。
はたから見ている彼女と母親の関係は典型的な共依存です。
娘に愚痴を言わずにはいられない母親とその愚痴を聞き続けないといけない娘。
不健全でいびつであるけれど、互いに相手が必要だ、と。
その母親の愚痴はまたリアリスティックというかヒステリックというか、とにもかくにも劇場的で目にそのシーンが浮かぶよう。愚痴のマスターなるものがいれば彼女の母親は十分にマスター位に叙せられます。そして、娘も愚痴がうまい。
この二人は息を吐くように愚痴を紡ぎだす。
この関係性を何年、続けてきたのだろうか?と思うとぞっとさせられます。
親子の共依存に巻き込まれそうなわたし
そして、娘は絶対に自分の子には愚痴は聞かせまい、と決意をしたもののそれが難しい。
どうしても身近にいる子どもに愚痴をこぼしたくなり、こぼすけれど、鬱陶しがられるだけ。生返事しかしない夫はそんな愚痴をこぼすにはふさわしい相手ではない。むしろ夫に愚痴をこぼすとますます愚痴がたまる、と。
というわけで巻き込まれたのは周囲にいる知人。
わたしも含めて何人が彼女の愚痴を聞いているのだろう。
恐らく想像するだに、人生のベテランであるマダムたちはそんな彼女の対処をうまくこなしているのだろう。その技を是非、伝授してもらいたいものだが、さらりとかわしていることを想像するのは難しくない。
そういう意味で彼女の愚痴をまともに受け止めているのはわたしだけなのだろう。
そのわたしの姿が彼女にとっては自分に重なるのだろう。母親の愚痴を聞き続ける、子どものような自分に。
そういう自己分析はできるのにそこから逃げることができず、彼女の、いや、彼女と母親が紡ぎだす沼におぼれそうになっているわたしがいる。
わたしは何故、彼女の愚痴を聞き続けるのだろうか。
うまくいく時はうまくいく、問題はうまくいかない時だ
この彼女と母親の関係は基本的には悪くありません。
うまくいっているときは本当に良くて、楽しい時もたくさん過ごしている様子。
そういう時に限って連絡はこない。まぁ、いい、二人で蜜月を過ごしているのか、凪を楽しんでいるのか、知らないが、連絡がないことは良い頼りだ。
問題は連絡が入った時だ。
そして、それは大概、愚痴と不満とヒステリーなのだ。
そこから互いに相手を共感と受容の渦に巻き込もうとする熾烈な争いが繰り広げられる。
「わたしの不幸を理解して…!」
「わたしの愚痴を理解して…!」
とばかりに。そして、それは自分のみならず、相手の脳をも支配していく。そのことばかり考えるようになってしまう。
「そうだ、わたしは何かをしないといけない」
娘もわたしも逃げ出す方法はいくつもある、でも逃げ出さない
娘の愚痴は年々、重たく粘着質になってきます。
微に入り細を穿つ、とはこのことか、というほど鮮明に克明に。ということは母親の愚痴も年々、重たく粘着質になっているのでしょう。
この二人の関係性は見事に相関図を描いているので、パターンから言うと、エスカレートする時は同時に、トーンダウンする時も同時に行われるのだから…!
それを楽しんで眺めていたのはもはや古い過去の話。
今は「またか…」と思いながらも超テキトーに相槌をうって、超テキトーにポチポチしています。
こういう時、電話時代は楽だった、ある程度、相手に配慮をして時間が来れば切ることがあったのに、メッセージのやり取りではいつまでたっても終わらない。
1時間かけて、1日かけて、2~3日かけて、1週間、1か月かけて愚痴が続くとさすがのわたしもうんざりとする。でも、これを娘は何年も何年も受け続けてきたのだ。それを思うとそら恐ろしい気持ちに襲われる。
そして、わたしも娘から逃げ出すことは考えない。
ならば、相手の愚痴と感情を受け流すスルースキルをもっと磨かなければ、と思った夜なのでした。
そして、今朝のメッセージを確認するか…と己を奮い立たせる朝。
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生きている限り、悩みはつきもの。