先日、友人と話していて一つのモノを長く使うか、それとも常にモノを新陳代謝していくか、ということを考えさせられました。
その時の友人は「お気に入りのモノを長く使う派」で彼女が愛用しているブランドの良さを熱く語ってくれました。
一方、わたしはモノに対する新陳代謝は早いほうだと思います。わたしの中で「もう使えない、使わない」と判断すると家計と相談して割合あっさりと買い換えます。そして不要になったものはメルカリやリサイクルショップでさっさと売り払い、お金に換えます。
こんなわたしもかっては一つのモノを丁寧に使うライフスタイルに憧れていました。
上質で普遍的なデザイン。年代を重ねて愛用。口コミも評判もそこそこいい。そして、お値段も最高。でも、長く使うものだから長い目で見ればお得だよね、と思っていた時期もありました。そのモノさえ手に入れれば、憧れのおしゃれな生活ができる、と。
でも、わたしは飽きるのです。
自分でも情けないほどにすぐに飽きるのです。魔法が解けたプリンセスのように、ハッと飽きてしまうのです。
本当に最後まで使い切ることができるのか?
購入する時はあんなにいろいろと口実を設けて購入したけれど、結局は使わない、それどころかときめきを失い、「わたしは何故、これを買ったのだろう?」と思う始末。
そして、「壊れたら修理すればいい」と思っていたけれど、修理の手間と価格を思うと、「それだけ出すならば、新しいのを買えばよくない?」と切り替える早さ。
それどころか、おおざっぱでずぼらなわたしは壊れる前のお手入れができない。メンテナンスもできない。そもそも、モノをこの上なく丁寧に扱う、メンテナンスを行う、修理に出すことが面倒くさい。
「イイモノヲテイネイニツカイ、ナガクツキアウ」
とてもいい響き。むしろ、そんなライフスタイル、とっても憧れます。
しかし、わたしには無理だわと諦念したのが数年前。わたしが本当の意味でそのモノを最後まで使い切ることは滅多にない、と。
以来、買い物をするときの目線がかなり変わりました。ちょっとお高いけれど、長く、長く、使えるものを選ばなくなりました。あえて避けるようになったところがあります。
心の琴線に少しでも触れた手ごろな価格のもので、壊れたら売買しやすいもの、何よりもあっさりと処分しやすいものを買うことがわたしのモットーになりました。
そう、物理的にも精神的にもあっさりと手放すことができるものを。
一生モノって本当なの?一生モノという言葉に響かなくなったのはいつ頃か
わたしが大阪の大学に通っていたころ、阪神淡路大震災が起こりました。
奈良の我が家も揺れましたが、それ以上にテレビの向こうに映る神戸が燃えていることに激しく衝撃を受けました。高速道路が激しく傾いていることに衝撃を受けました。
当時、父は大阪へ車で朝早くに出勤していた頃。携帯電話も通じないままに母親が右往左往したことを覚えています。皆が動揺しました。
そして、わたしの当時のバイト先は大阪市内のクレジットカード会社。職場が入っているビルにヒビが入り、いつものフロアに書類が散乱した様子に混乱をし、強く動揺していたことを覚えています。
そして、何よりも兵庫の友人宅はあっけなく焼失しました。
これらの事実に20代初めの極めて繊細だったわたしの心は激しく揺さぶられました。地震の持つはかりしれないエネルギーに驚きと混乱、衝撃、悲しみ、惑乱、戸惑いすべてが襲い掛かってきました。
そして、「そうだ、モノはいつか壊れる、消える」と強く、強く実感しました。
どんなにお気に入りのものでも壊れ、消えていく、と。どんなに手をかけたものでも壊れ、消えていく、と。わたしの手をすり抜けていく、と。
その後、日本で続いた災害はわたしのこの考えをどんどんと補強していきます。
特に東日本大震災と鬼怒川決壊では映像の持つ強さゆえに恐怖が増幅させられました。最近では西日本豪雨、台風21号、北海道地震が続き、年を重ねるごとにわたしの中でどんどんとモノは「失う」「壊れる」意識が強くなってきました。
「諸行無常」という言葉を生み出した日本人ならば、大なり小なりこの感覚があるかもしれません。わたしの中ではこの「儚さ」という感覚が自分で想像しているよりも大きくクローズアップされています。
諸行無常とは
この現実の世界のあらゆる事物は,種々の直接的・間接的原因や条件によってつくりだされたもので,絶えず変化し続け,決して永遠のものではないということ。
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モノを前にすると無意識のうちに、「失う時」を考える
わたしの中に、物事に対して無意識にセーブする癖があります。人間関係であれ、モノであれ、場所であれ。
基本的には目の前にあるものに対して、深い思い入れを持たないようにしているわたしがいます。それが友人にはクール、ドライといわれる要因かと思いますが、常に「すべてのものはいつか失われる」という前提で向き合っています。
失ったときに「ほら、やっぱり、これは失うものだったのよ」と思いたいがために。
顕著なのが、若いころ、恋人と別れる時でしょうか。
わたしは恋人に対しては決して強い思いを抱かないことを意識して自分を守りました。
恋人と別れて涙を流すことはあっても、決して振り返らないために元恋人を容赦なく切り捨てることができる非情さがわたしの中にありました。いえ、今でもあるでしょう。
わたしの心が「もう終わり」と思ったら「もう終わり」なのです。極めて自己中心的でエゴイスト。でも、それがわたしの心を守る手段だったのです。わたしの頭の中には自分が決定的に傷つく前に離れる、ということが常に存在していました。
その非情さが「モノ」に対しても遺憾なく発揮されているような気がします。
ほどほどのものを買って、ぱっと手放す。
そして、モノに強い気持ちは抱かない、と。
だって、いつかはわたしの手から離れていくんだもの。そうよ、離れていくのよ。
モノに対する「非情さ」と自分に対しての自信のなさ
わたしは自分の判断に自信を持てないのでしょう。目の前にある、その時のお気に入りのモノを買って、「わたしは永遠に使い続ける!」という確信が持てないのでしょう。
モノを買う時のその情熱とトキメキはいつまで続くのか、と。
そんなあやふやなモノにお金をかける価値があるのだろうか?高価なものであれば、わたしは背伸びをする必要があるのだろうか?と諦念してしまいます。
そもそも、「これが欲しい!」「本当にこれが欲しい!」と思っているわたしの気持ちは本当なのだろうか?わたしは純粋な気持ちでそのモノが欲しいのか?
突き詰めて考えていくと「否」という答えが絶えず浮かび上がってきます。
わたしは「モノ」が欲しいんじゃない。その「モノ」が醸し出すストーリー、素敵さ、ブランド力、裕福さを誇示するためのトロフィーが欲しいのだ。
常に、常にそんなことを考えているわたしがいます。
わたしは分かりやすいモノで自分を飾り立てようとしている。自分に対する自信のなさを誤魔化すためにモノに頼ろうとしている。
でも、モノに頼ってしまった場合、それらを失った時にわたしはどうするのだろう。そして、先ほどの震災や天災云々に戻ります。
モノはモノ、人は人、わたしはわたし
わたしは今後も背伸びをしないで、自分にとって手ごろな価格のものを購入して、使って、売って、廃棄して、また次のモノを買うライフスタイルを続けるでしょう。
そして、その中で気に入ったものがあったり、丈夫なものがあったり、廃棄する理由がないもの、売る理由がないものは長く使い続けるのはアリだと思います。
でも、一つのモノを長く丁寧に使うライフスタイルへの憧れは手放したい。それはわたしの理想とするライフスタイルじゃないから。
むしろ、モノへの執着がない、精神的にも物理的にも身軽で軽やかなほうがわたしは落ち着く、ということを実感しました。
わたしはブランド物のバッグも財布も、アクセサリーも洋服も買わない。豪奢な家も欲しくない。高級外車も欲しくない。壁を飾る絵画も欲しくない。豪華なフレンチのコースも食べたくない。月旅行もしたくない(むしろできない・・・!)。
わたしのライフスタイルには不必要なモノにもブランドにも、そして、価値観にも左右されたくない。執着したくない。わたしはわたし、として立ちたい。
わたしは自分に必要なものを必要な時に自分が納得する価格で買うだけの生活を続けたい。
そして不要になったら、さっとそれらを手放す生活をしたい。無理した背伸びをしない生活をしたい。自分の気持ちのいい生活を続けたい。
わたしは常に身軽でいたい。
だから、わたしは一つのモノを長く使う、というライフスタイルを放棄したのだと思う。
そして、それでいい。